短編怪談 ぬめり

自分の芸名をぬめりと名付けるアイドルと才色兼備なアイドルにインスパイアされ書いてみた怪談をここで供養

 

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「ぬめり」

 

 これは大阪市内のマンションに住む姪っ子の桜子から聞いたお話し。

 

 布団から出ている顔だけが冷たくて、そのせいで目を覚ますような晩秋の朝。桜子が洗面台に向かう途中、母親、楓の部屋の前あたりでスリッパの下にぬちゃっという感触を覚えた。それだけでなく足を滑らせてあやうく転びそうになった。廊下が濡れていた。少し酸っぱい臭いもした。

 母親の楓が生ゴミを捨てに行く際にビニール袋からなにか漏れていたのに気づかなかったのだろうと桜子はぼんやり思った。楓は頭こそいいのだが、日常生活では少々うっかりなところがある。それなので桜子もさほど疑問に思わなかったのだ。彼女は濡れているところを避け、顔を洗い一人でパンを食べ小学校に向かった。

 その晩の八時すぎ。桜子はホットココアを飲みにダイニングに行った。食卓では楓が遅めの夕食を取っていた。楓はこの地方のマンモス大学で生物環境学を教える准教授だ。朝は遅めでその分夜も遅い。父親の遼は単身赴任で東京にある大学の非常勤講師をしていた。

 普段は他愛もない会話しかしないが、この日は楓の様子が少し違った。少しかしこまった感じでちょっといいかなと桜子に座るように促す。

「らこ(楓は桜子をこう呼んでいた)、なにか学校で嫌なこととかあった?」

 桜子は少し戸惑った。お笑い芸人のネタを真似して滑りまくる図画工作の先生や精神年齢の低い男子生徒にイラッとすることはあるものの友達にも恵まれていて学校は楽しい。

「どうしたのママ?」

「ううん、なにもないならいいんだけど」

 言いよどんだのを桜子はなによーと促す。

「いじめとか受けてない? なにかあったら絶対相談してね。なんだったら、学校なんて行かなくたっていいんだから」

 桜子は考えた。特に学校は嫌じゃない。母親にそれほど心配される心当たりがなかった。

「ママ、なにかあった? ほんとになにもないんだけど」

「そう?」そこで楓は少し迷ったようだが言葉を続けた「昨日の晩、わたしの部屋の前うろうろしてたでしょ。足音が聞こえたわよ。何度も行ったり来たり」

 夜中の二時三時に寝て朝の九時過ぎに起きるのが母親の日常なので、桜子は母親の寝ている真夜中の時間帯に自分の部屋を出ることはない。母親の聞いた足音は間違いなく自分のものではない。

「それ夢見たんじゃない?」

「そんなことないわよ。ベッド入ってすぐ、寝る前だもの」

 その時だった。ぺたっぺたっという足音らしき音が聞こえたのは。

 桜子と母親は顔を見合わせた。楓は携帯電話を手にし、二人で音のした廊下に足音を忍ばせて向かった。

 廊下の人感センサーが反応してライトが点いた。なにかの影が一瞬だけ見え、すぐに母親の部屋に消えていった。

 見えた?という桜子の問いに母親は訝しげに「なにかいたわよね。ネズミ?」と答える。

「もうちょっと大きくなかった? イタチとか猫とか」

「なんでイタチがいるの?」

「知らない。でも今ママの部屋に入っていかなかった?」

「ねえ、ドア開いてないんだけど」

「ちょっとだけ隙間あったんじゃない」

 どうやら音の正体は小動物らしいのがわかって二人は普通に楓の部屋に向かった。するとまた桜子のスリッパの下でぬちゃっという音がした。どうやら朝廊下が濡れていたのもあの動物のせいらしい。

 桜子は小さな手で鼻と口を覆った。朝より生臭い匂いが強くなっていた。楓もそういえばと呟く。

「今朝部屋の中が少し濡れてたのよね。どこかから水漏れしてるのかって思ったけどあいつのせいか。ああいうのどうすればいいのかな。市役所の害虫駆除係みたいなとこだっけ」

「こんな時間にやってるの?」

「そうね。とりあえず外に追い出しちゃおう」

 桜子たちは楓の部屋に入った。確かにドアはしっかり閉まっていたがその時は深く考えずにドアを開けた。楓がアレクサに呼びかけて部屋の明かりを灯した。

 小動物を探す前に桜子はぎょっとした。

「ねえママ。あれなに」

 桜子の視線の先には膝の高さほどの日本人形がガラスケースの中で飾られていた。花のついた枝を持つ藤娘の人形だ。それはデスクの脇の床の上に直接置かれていた。飾るという感じではない。

 それより。その目が。

明らかに人形のものではなかった。人のものでもない。けれども生きている。強いて言うなら生気のないなんの感情もない瞳だ。ゾンビのような目。

「なに言ってるの。二、三年前からあったじゃない。パパが沖縄出張に行ったときに買ってきたんだもの」

そんなはずはない。少なくとも二日前に母親に学校のプリントを渡しにきたときにはなかった。桜子は母親をまじまじと見た。なにかに憑かれているようなおかしなところはない。さらに母親は続けた。「パパったらなぜ沖縄でわざわざ木彫りの熊買ってくるのかって笑ったじゃない」

 木彫りの熊? なんのことを言っているのか桜子にはわからない。ともかく問題は目の前の日本人形だ。

「あれ、一昨日部屋に来たときはなかったよ。その前も」

 困惑の沈黙が流れた。桜子が母親と人形を交互に見比べているとガタッと音がして日本人形が倒れた。楓は桜子をギュッと抱きしめた。

「ねえ」桜子の声は震えていた。「今勝手に動いたよね」

「多分もともとバランス悪かったのよ。でもちょっと気味悪いから捨てに行きましょ。このへんだと門戸厄神さんがいいかし……」

 楓が全部言い終わらないうちに人形はガラスケースの中でガタガタ動き始めた。

「そう、そうよ。ずっと気が付かなかっただけであれカラクリ人形だったのかも」

 そんな楓の解釈もすぐに否定された。不思議なことに人形はガラスケースをすうっと通過して床に転がったのだ。

 人形は起き上がることなく転がった状態のままその場で小さく跳ねた。

 ぬちゃ。

 そしてもう一度跳ねた。そのたびに音がする。さっき聞こえた足音の正体はこれだった。

 人形は跳ねながら桜子たちの方に向かってきた。さながら床の上でバサロしているような動き、いやこれは魚がピチピチ跳ねている感じだ。ただ粘性が高いのか跳ねるたびにぬちゃぬちゃという音がする。そこで桜子は思い当たった。人形の目はスーパーの鮮魚コーナーで見る魚の目に似ていることを。

 桜子はここで完全に思考停止してしまった。

 その点楓はさすが分別のある大人だ。すぐに我に返って本棚から大きくて分厚い本を一冊抜き取った。

「らこ、窓開けて」

 桜子は母親の意図を察した。跳ねる人形を避けて母親のベッドの上を通ってベランダへの窓を開けた。楓は本の裏表紙で人形を薙ぎ払って部屋の外に追い出そうとした。だがその目的は達せられなかった。人形の表面がぬめっていて本がぬめりと上滑りしてしまうのだ。

 恐怖にかられながらも桜子にはフルに頭を動かした。このぬめりを取るにはどうしたらいい? 塩……そうだ!

 サマーキャンプに行ったとき、塩で魚のぬめりを取る方法を小堀先生が教えてくれた。

「ママ、塩取ってくる」と転がるようにキッチンに行き塩の入った容器を掴むと母親の部屋に戻った。相変わらず人形はぴちゃぴちゃと跳ねている。

 楓は桜子から塩を受け取ると容器の蓋を取り、逆さまにして中の塩を全部、惜しげもなく人形に被せた。人形の動きが鈍った。ここぞとばかり楓は人形を空になった塩の容器で掬いそのまま窓の外に放り投げた。人形はベランダの柵を越えて七階の夜空に消えていった。あの勢いならマンションの裏を流れる川まで飛んでいっただろう。桜子は慌てて窓を締め、ロックを二重で掛けた。

 二人は力が抜けその場に座り込んだ。その瞬間玄関のチャイムが鳴った。

「まさか。ママ、あれ帰ってきたんじゃないよね」

「熊の人形がチャイム鳴らさないでしょ」

 そう答えながらもやはり不安なのか楓の声は少し震えていた。

 楓と桜子は抱き合いながら玄関に向かった。どなたですかと声を掛ける前に玄関の鍵がゆっくり開いた。ドアを開けて入ってきたのは父親の遼だった。桜子たちは安堵のあまり再び脱力してそのまま廊下に座り込んだ。

「どないした?」

 ただならぬ二人の様子に遼はカバンを置くと慌てて靴を脱いだ。

「魚が。人形の。ぴょんぴょんして」

 桜子の要領を得ない説明を遮って楓が要点を整然と説明した。こういうところはさすがに准教授を務めるだけのことはある。ただ一点、楓の説明では日本人形が木彫りの熊に置き換わっていたのだが。

「熊? ベッドルームにあったのって、一ヶ月ほど前にばあちゃん家から送られてきたヌー、いや、アンティークドールやろ。イギリス製の」

「パパ、何言ってるの?」と楓。「パパが沖縄で買ってきた熊の人形よ」

「大丈夫か? どこのどいつが沖縄で木彫りの熊買ってくんねん」

 桜子はどっちにせよ少なくとも二日前にはなかったと言いたかったが、両親の話の噛み合わなさに口を挟むタイミングを掴めなかった。

 確認のため遼と一緒に三人でベッドルームに入ると楓は声にならないかすれた叫び声を上げた。桜子は母親にしがみついた。

 机の横、ガラスケースの中には藤娘の人形が立っていたからだ。それもびっしょりと濡れて。

「……ぬーめり」

 遼が訝しげに口を開いた。

「え、今なんて言った?」と楓が聞いたのと、人形がまた倒れた。さっきの再現のようにガラスを通過し、床の上でぬちゃ、ぬちゃ、と跳ねる。

「ヌーメリック、簡単に言うと数値のことや」

 遼は人形から目を離さず答えた。

「この人形の名前のこと?」

「こいつコーチェル・ビルカー教授いう数学者になんか似てんねん。いや顔は似ても似つかんのやが。でもドールのこの口。教授が講義のときヌーメリックっていうのにそっくりやねん」ここで父親はもう一度妙なイントネーションで「ヌーメリック」と繰り返した。

 桜子にはまったく同意も理解もできない。しかしそういうセンスはいかにも父親らしい。浴槽にコキュートス(ギリシャ神話に出てくる嘆きの川)、冷蔵庫にゲフェングニス(ドイツ語で牢獄)と名付ける父親だったので。

 

 ヌーメリックの説明を聞いた途端、人形の様子が変わった。まず跳ねる動きがピタッと止まった。そして後ろ襟を摘まれたように不自然な立ち方をした。目も魚の目から普通の人形のものに変わっていた。その顔はなぜか戸惑っているように桜子には見えた。

 楓はいきなり激怒した。人形に詰め寄ると胸ぐらを掴んだ。

「われ、なにさらしてくれよんねん!ヌーメリックをぬめりに空耳してビビらせてくれよったんかい。はあ? ざけんな!どたまかち割って南港沈めたろか!」

 桜子は唖然として母親の姿を眺めていた。

 日本人形は怯えているのか、はたまた恥じているのか頬がほんのり紅に染まっているようだ。そして消え入りそうな小声で呟いた。

「ニュー……メリックってどうやればいいんですか」

「知るかっ!ボケっ」と楓は一喝。「そのこまっしゃくれた顔ギタギタにして生ゴミの日にほかしてやるわ」

 そう言ったかと思うと掴んでいた人形をそのまま頭からゴミ箱に突っ込み袋の口を結わえてしまった。

 

 そしてそれ以降桜子の家で奇妙なことは起こらなかった。ただ一つ、なんど捨てても人形が楓の部屋に戻ってくることを除いては。

 

 その話を聞かせてくれた桜子は最後にこう言った。あれほどガラの悪い母親の姿は十一年生きてきて初めて見た。まるでまったく知らない人のようだった。あの鬼気迫る表情の母親の怖さは思い出すだけで身震いする、と。

                               

                                             

                                      了